整えることで失われるもの
文章を書き終えたあと、なんとなく引っかかる部分があった。
表現が少し重複している気がしたのだ。
同じことを何度も言っているように思えて、もっとすっきり整理すれば良くなるはずだと感じた。
だから、書き直してみることにした。
重複を削り、言葉を簡潔にし、全体の流れを整える。
完成した文章を読み返しながら、「うん、これで洗練された」と自分に言い聞かせた。
でも、何かが違う。
たしかに読みやすくなった。伝えたいポイントもはっきりした。
それなのに、心に響かない。なぜだろう?
修正前の文章を読み返してみると、たしかに少しくどい。
だけど、その「くどさ」の中に、私自身の感情がしっかり息づいている気がした。
繰り返し言葉にすることで、私がそのテーマにどれだけ強く思い入れを持っているかが、読み手に伝わる形になっていたのだ。
この発見は少し衝撃的だった。
私は整えることで「良い文章」になると思い込んでいたけれど、整えすぎたことで逆に文章が平坦になり、大切な感情がどこかに置き去りにされてしまったのだ。
言葉の重複や未整理な部分は、不完全でありながらも生き生きとした人間らしさを宿している。
それを取り除いてしまうと、文章がどれだけ正確で綺麗であっても、味気なく感じられるのだ。
これは文章だけに限らないだろう。
人間関係や仕事、芸術など、何事も「整えれば整えるほど良くなる」とは限らない。
整えるたびに、何か大事なものを失う可能性もある。
例えば、人間関係では、相手の言葉尻や態度を過剰に整えようとすると、相手の本当の気持ちや自然な魅力が見えなくなることがある。芸術でも、完璧を目指して細部を突き詰めすぎると、最初に抱いた感動やひらめきが失われることがある。
だからといって、整えることを完全に否定するつもりはない。
整えることで、より多くの人に伝わりやすくなる場合もある。
大切なのは、何を残し、何を削るか、その取捨選択だ。
文章の重複がただの冗長さに過ぎないのか、それともその重なりが感情の深みを生んでいるのかを見極める目が必要なのだ。
私は今回の経験を通じて、整えすぎることの危うさを学んだ。
そして同時に、整えないことの勇気も知った。
これから文章を書くときは、自分の気持ちをどこまで整えるべきか、どこをあえてそのままにしておくべきか、少し慎重に考えてみようと思う。
一番初めに書いた文章はたとえ拙く感じても、最も感情が素直に反映されたものでもあるのだ。
不完全なままの魅力を信じられるかどうか――
それが、本当に心に響く文章を書く上で、忘れてはならない鍵なのかもしれない。
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