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心に残る恩師の言葉⑤「努力のできない天才は、いつか努力できる凡人に追い越されるからな」

「努力のできない天才は、いつか努力できる凡人に追い越されるからな」
これは、高校時代の担任であり、美術の先生だったM先生の言葉だ。

 

先生は私に数々の言葉を残してくれたけれど、その中でも一番胸に突き刺さっているのがこの言葉だ。ただ、皮肉なことに、この言葉がどういうシチュエーションで、何に対して私に言われたのかは、まったく覚えていない。

 

私は中学時代、美術系の高校に入るために必死で努力してきた。そして、入学した年、たった一人の特待生としてその高校に迎えられた。もちろん、デッサンの受験のために日々絵を描き続けた努力が認められてのことだった。だが、そんな私の情熱は、高校に入ると急に冷めてしまった。

 

おそらく私は「頑張らなくてもなんとかなる」という妙な自信に支配されていたのだと思う。自分で言うのもなんだけど、絵を描くことに関して私は人より器用だったし、センスもあったと思う。結果がすぐに求められる中で、「それなりに見えるもの」が作れてしまう。それが、努力する必要を私から奪っていたのだ。

 

あるとき先生に「お前はいつも簡単そうにやってのける。それがむかつく」と言われたことがある。先生も笑いながら言っていたし、私も笑って返した。けれど、今になって思う。それは決して褒め言葉ではなく、むしろ「残念だ」と言われていたのかもしれない。

 

「努力のできない天才は、いつか努力できる凡人に追い越されるからな!」

先生が私を「天才」と呼んでくれたことは確かに嬉しかった。でも、あの時、私は自分が「努力ができない人間」だということに気づいていた。そして、そのままではダメだ、と漠然と感じていたのも事実だ。

 

 

その予感はすぐに現実となった。私は、コツコツ努力を続けるクラスメイトたちに追い越されていった。そのとき私は、「自分には才能がなかったんだ」と思い込んだ。でも、今ならわかる。私に足りなかったのは、才能ではなく、努力を積み重ねる力だったのだと。

 

ただ、子どもの頃から努力をまったくしていなかったわけではない。小学生の頃は絵が上手くなりたくて、ノートに夢中で絵を描いていたし、中学生のときは好きな先生に褒められたくて、夜中まで勉強していた。でも、それらを「努力」と思ったことは一度もなかった。ただ「好きだから」「楽しいから」やっていただけだった。

きっと、高校に入った頃の私は、「好き」ではなかったのだ。絵を描くことが。

 

正直、この言葉を正確に覚えているわけではない。「天才」ではなく「秀才」だったかもしれないし、「凡人」の部分が「秀才」だったかもしれない。でも、どんなニュアンスだったとしても、あの頃の私が先生にとって「少し残念な生徒」に見えていたことは間違いないと思う。自分でも、「努力しないでできてしまう」ことに甘んじていた自覚がある。努力せずにできるということに憧れすら抱いていた。

 

そして、この言葉を受け取った私は、自分が「努力できない人間だ」とどこかで認めてしまった。正直、その呪いを解くのに何十年もかかった。でも今、ようやく私は「努力ができる人間」になったと思う。天才かどうかはわからないけれど、コツコツ積み重ねることの大切さを、身をもって知った。

 

今私は「努力」を努力と思っていない。ただ「好きで楽しいから」やっているだけだ。それが、あの頃の私が見つけられなかった、努力の本当の姿なのだと思う。

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