心に残る恩師の言葉⑦「これだったらアナログのがいいなぁ。君は水彩が得意なんだから」
2011年23歳の頃、私はイラストレーターの養成スクールに通い始めた。
20歳の時に切り絵で初めての個展をし作家を名乗り始めた。
オーダーの制作や、グループ展。積極的に活動していたつもりだけれど、安定した収入に結びつける方法がわからず迷走していた。
そもそも、切り絵作家として活動を始めたが、心では水彩画とイラストを描くことも捨てられなかった。中学生の時に絵の道を志した原点であり私の夢は、「わたせせいぞうさんのようなラストレーターになること」。必ずしもそれは切り絵である必要はなかった。ロマンチックで心に響くイラストを描きたい。雑誌などで。それが私の目標だった。
そんな時、有名なファッションイラストレーターの先生が主催しているイラストレーター養成スクールを見つけた。この年齢からがっつりと専門学校に通うのは金銭的にも時間的にも厳しい。そう思っていた私は、これだ!と思った。すぐに、全学費を用意して、先生のお宅を訪問した。
当時先生はすでに70代だった。
優しくて厳しいお爺さん先生だった。
閑静な住宅街の一軒家の部屋で教室を開いていた。朝の10時から夜の10時まで、休み時間はなく開けられている教室。3時間が1単位で、好きな時間に来て、好きなだけ描き、好きな時間に帰る。そんな自由度の高い教室だった。
5人も入るといっぱいの教室だが、うまいことみんな時間がずれたりして、集中して自分の世界に浸ることができた。
机を向かい合わせているものの、お互いの名前も知らず、話はしない。そんな内向的な絵描きの集まりらしい距離感が心地良かった。ラジオの声を聞きながら、庭から入る日差しを感じながら、先生のお宅の猫に邪魔されながら、皆、黙々と制作していた。
通い始めたばかりの頃は、東京に住んでいたから、川崎市内にある先生の自宅までは1時間もかからなかった。しかし途中で宇都宮に引っ越すことになり、通うのに3時間かかるようになってしまった。それでも週に何日か通った。
朝、湘南新宿ラインに乗って、2時間半爆睡して、お昼ごろに着く。パン屋さんでお昼を食べて、そこから5時間ほど描いて、また3時間かけて帰る。若くて、まだ体力があったからそんなことができた。
とは言え、私が1番遠かったわけではない。著名な先生の所には、どんなに遠くても通いたいという生徒はいるものだ。
教室では、デッサンに始まり、人物の描き方、パース、デフォルメ、そして着彩の基礎を一通り教わる。
着彩については、ガッシュ・コピック・カラーインクなど、平成のイラストレーションの基礎のような画材を教わった。
その中で私は、もともと高校で透明水彩を専攻していたこともあり、カラーインクによる着彩が肌に合うような感じがして、カラーインクで人物や風景を描くようになった。
私は、人物を書くイラストレーターになりたかったのだが、先生曰く「風景画のセンスがある」ということだった。
筆が早い私は3時間で1枚仕上げた。1日に2枚ほど描いては満足して帰宅した。
イラストスクールでは、基本的にみんなアナログで描いていた。
先生自身は、Photoshopでもイラストを描いていたが、教室には生徒用のパソコンがないので、デジタルを描きたい人は、自分でパソコンを用意するようにとの事。私は高校の時から父に教わって、Photoshopで絵を描いていたし、今の時代はデジタルのイラストのかっこいいと思っていた。だから、アナログで基礎の練習はしているけれど、いつか仕事にするならデジタルにする!と心に決めていた。
生活が厳しくてバイトが忙しくなった時、1年ほどイラストスクールを休むことにした。
その間、ノートパソコンと液晶タブレットを買い、夢中でデジタルの練習を始めた。
最初は線を真っ直ぐ描くのも思う通りにいかなかった。でも毎日毎日何時間も練習することで、少しずつコツをつかみ、デジタルイラストが描けるようになってきた。
100枚位は書いただろうか。1年後、描きためた作品を持って、先生の元へ訪れた。
この1年の努力の、作品ファイルを見せる。
先生は、パラパラとそれを見て、一言、こういった。
「これならアナログのほうがいい。君はアナログが得意なんだから。」
・・・撃沈だった。
まさか、こんなに一刀両断されるとは思わなかった。
この1年かなり努力したのだ。毎日寝る間も惜しんでパソコンに向かった。
あの努力は何だったんだろう。悔しくてたまらなかった。
そして先生は
「君は、水彩画が向いている。水彩画で風景を描くといい。すぐ仕事にできるよ。」
と言った。
それは完全に褒め言葉だと思う。
だけど、私の1年の努力は全否定だった。
だって、私は「アナログで風景画」ではなく「デジタルで人物画」を描きたいんだから。
なぜこうも好きと得意は違うのか。
悔しくてたまらなかった。
とっさに、私はこう言った。
「じゃあ、水彩画みたいなタッチなら、デジタルで描いてもいいですか?」
先生は
「それができるならいいよ」と言った。
だから、私は1週間後、タッチをまるっきり変えて、にじみやぼかしを使った水彩画タッチで、Photoshopで女の子を書いて持っていった。
先生に見せると「これPhotoshopで書いたの?へぇすごいね」驚いてくれた。
そして「これならデジタルでもいいよ」と言ってもらえた。
やったーと心の中で、ガッツポーズした。
しかし、それからまた忙しくなってしまい、いつの間にかイラストスクールには通わなくなってしまった。
いつの間にかフェードアウトしてしまった私に、ある時先生からメールが来た。
「スクール生の、売り込み用の冊子に載せませんか?君のアナログの風景はとても良いので」
やっぱり、先生は私に「アナログで風景画を描く」ことを勧めてきたのだ。
しかしその時私は絵を描くような精神状態ではなくお断りしてしまった。
あれが先生との最後のやりとりになってしまった。それを今でも悔やんでいる。
「風景画で売り込みに行きなさい。多分仕事取れるよ。」
そうやって、先生は私を認めてくれていたのに、あの時の私はグダグダと絵を仕事にするのを先延ばしにしていた。でも、それは心のどこかで「本当に描きたいもので売り込まなければ、きっといつか後悔する」と思っていたからだ。
先生には申し訳ないけれど、結果的にあの頃の選択が、今、切り絵作家としての私を存在させてくれているのかもしれない。
過ごした月日は短かったけれど、人見知りの私は誰も友達を作れなかったけれど、先生のスクールで学んだ事は、私のプロとしての基礎になっている。
そして、何よりも、あの自由で温かな先生の自宅教室が、講師としての私のあり方や目標にもなっている。いろんな意味で、先生に出会えたことを、感謝しているのだ。
朝10時から夜の10時まで、生徒と共に自分のイラストの制作に励む。
ときにはパソコンに向かって。
ときには庭でイーゼルを立てて。
夜の6時になると焼き魚のいい匂いがしてきて、隣のダイニングで、短い夕食を取られる。そしてまた制作に戻る。
そんな穏やかな先生の日常に、若い私は憧れていました。
今はもう会えないけれど、私の行く末に、あんな温かな生活があるようにと願うのです。
あの頃を思い返せば、
愛猫を愛でながら、
庭で油絵を描く先生の後ろ姿が蘇ってきます。
キラキラした春の日差しの下で。
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