無くしたアイデアは美しかった。
昨夜、電車の中でスマホを使い、ブログの記事を書いていた。家に帰ってパソコンを広げ、アップしようと思った時、うっかり手が滑り、書いたメモを全て消してしまった。慌てて「戻る」のショートカットを使ってみたが、もう文字が戻ることはなかった。悔しくて、何度も書いた記事を思い返しながら同じような文章を打ってみるものの、どうしても電車の中で書いた文章の方が良かった気がして悔しくてならない。
こうした経験はこれが初めてではない。なくしてしまったものはいつも、思い出の中で輝き、より優れていたように感じる。本当は大したことはなくて、改めて今書いているものの方が良いのかもしれない。多分きっとそうなのだ。でも、確認できない過去の産物は、手の届かないからこその美しさを帯びて、心に居座るのだ。
19歳の頃、真夜中に湘南海岸で見た月のことを、今でも恋しく覚えている。それは父が亡くなって間もない9月か10月のことだった。当時付き合っていた彼が、私を元気づけるために連れ出してくれたドライブだった。どこかの海岸で車を止め、私たちは小さな突堤へと歩いた。真夜中の海は黒く、あたりは静まりかえっていた。舞台の暗転の最中のような、そんな世界の中で、水平線近くに浮かぶ月が、一筋のスポットライトのように、水面にまっすぐな光の道を描き、その道が突堤に立つ私の足元まで続いていた。海の上に走るその光の道を渡って、月まで行けるんじゃないかと、海に吸い込まれそうなほど、あの時私は本気で思った。
その月の美しさを写真に残そうと、確かに数枚撮ったはずなのに、今ではどこを探してもその写真は見つからない。いつかどこかのタイミングで消えてしまったのだ。私はあの時の月が、今まで見たどの月よりも美しかったと確信している。思い出の中で、あの月はいつまでも輝き続け、記憶の中で完璧なものとして存在し、そして今も私をあの日の海に誘うのだ。
おそらく、写真が残っていないからこそ、その月は私の中で特別なものになっているのだろう。もし写真が手元にあったなら、記憶は現実の写真の月に上書きされ、あの時の感動が薄れてしまっていたかもしれない。なくしたものを美しいと感じてしまうこの心は、良くもあり悪くもある。できるならもう一度あの月の写真を見たいけれど、そんなことが私にとって意味のないことだとわかってもいる。
失ったアイデアや瞬間もきっとあの日みた月なのだろう。もう手に入らないからこそ、それが最高のものだったように感じてしまう。しかし、それは幻想だし、どうでもいいことだ。実際に今持っているもの、今作り出したものこそが全てなのだから。過去に囚われず、今の自分を信じて、新しい美しさを作り出すことに専念しよう。
私も残りの人生で、あの日の記憶を超えられる月を、見ることができるだろうか。
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