絵にならないものを描くということ
優れた写真や美しい風景が「良い絵」になるのは、当たり前の話だ。
視覚的な魅力が初めから備わっているモチーフを選ぶのだから、絵として成立するのは自然な流れだろう。
でも、平凡で無機質な写真や、一見して「描く意味があるのだろうか」と思えるような風景を絵に仕立てる。
そこにこそ、絵を描く醍醐味があると私は考えている。
振り返ると、中高生の頃の私は「絵にならないもの」に異様な執着を抱いていた。
他の人が見向きもしないような取るに足らないモチーフを好んで描き、「絵にならないものなんて存在しない」と信じて疑わなかった。
むしろ、「それを魅力的に見せるのが絵描きの腕の見せどころ」だと思い込んでいた。
例えば、高校1年生の時、市民芸術祭に出した油絵。モチーフは、我が家の洗面所だった。
改めて振り返っても、あの時なぜその場所を選び、何が私をそこまで惹きつけたのか、今となってはまったく分からない。
ただ、あの空間に独特の情緒を感じたのは確かだ。
しかし、その感覚を当時の画力で表現しきれなかったのもまた事実で、結果として「何だこれ?」という反応を多くもらった。
未熟だった私にとって、それは一種の挫折だったのかもしれない。
それでも、あの頃の私は純粋だったと思う。「評価」なんて意識していなかった。ただ、自分が「描きたい」と思ったものを描いていただけだ。しかし、絵を生業とするようになり、やがて私は「評価されること」や「売れること」を無意識に優先するようになった。誰もが「美しい」と思うモチーフ、たとえば世界遺産や四季折々の名所、可愛い動物――そういったものを描くことで、私は評価を得るようになった。
その結果、私はいつの間にか「絵にならないもの」を描こうとする心を失っていたように思う。
見たままに美しいものを描くのは楽しい。だが、その感覚にはどこか物足りなさも感じている。
私が本当に描きたかったのは、あの洗面所のような、誰にも見向きされないような場所やものだったのではないか。
最近、私はふと思う。「絵にならないもの」を絵にすること。それこそが、私の原点であり、本当に心が躍る行為だったのではないかと。もう一度、あの頃の自分に立ち返り、「どうしてこれを描きたいのか分からないけど描く」という純粋さを取り戻してみたい。たぶん、それが今の私に欠けているものだ。そして、それこそが私にとって、再び絵を描く楽しさを教えてくれる気がしてならない。
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